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もうすぐ一年 [雑感]

「あの日」の記事には阪神大震災のことを書いたけれど、やはり私にとっての「あの日」はなんと言っても3.11の地震だ。「あの日」からもうすぐ一年経つ…。まだまだ困難な状況の方はたくさんいらっしゃるので、過去の出来事として語るなんておこがましいけれど、記憶を風化させたくないので、私にとっての「あの日」を思い出して書いておく。

あれは金曜日だった。ちょっと遅めの昼食の後、私は職場の実験室で分析作業をしていた。普段実験室では私以外の誰かしら作業をしていることが多いけれど、その時はたまたま私しかいなかった。そして立ってサンプルを交換中、ふと窓のブラインドの辺りのガシャガシャという音に気づいた。最初はうるさいなーと思っただけで作業を続けたけれどずっと音は鳴りやまない。何で音がするんだろう?としばらく考えて「あ、地震!」とようやく気づいた。

実験室には劇薬もガラスもたくさんあり、普通のオフィスよりも遥かに危険である。しかも実験室のある建屋はちょっとした風雨で壁から雨漏りするようなシロモノ。耐震性が高いとは思えなかったので身の危険を感じた私は一目散に出口を目指した。周りに誰もいなかったので、何もかも自分で判断しなければならない。自分の身を守れるのは自分だけだったのが恐怖に輪をかけた。幸い実験室は1階にあり、建物の出口もすぐ側にあったのでそこまで行った。

建物のドアの目の前には避難訓練でいつも集合場所となる広場があるけれど、まだまだ揺れ続けていたので当然ながら誰もいない。そこに飛び出す方がいいのか、それとも建物の中にいた方がいいのか判断できなかったのでドアを開けたままドア付近で様子を見た。揺れは今まで体験してきた中で一番大きく、しかも異常に長かった。古い建物は崩れるのではと本気で心配したくらいだ。でも後から考えたら私はドアにつかまってはいたもののずっと立っていた。だから震度としては大したことはなかったのだろう(多分震度5弱くらい)。何しろ後で点検したら机の上のビーカー一つ割れていなかった。ただ予想通り?その建物のドア付近の壁にはひびが入ったようで、つい最近修繕されていた。

異常に長かった揺れが少しおさまってきたので、居室の方に向かって歩いた。誰かとこの異常な地震について話したかった。すぐに同僚が見えたので少しホッとして話をしたらまた何度もガタガタ揺れた。それでも知り合いと一緒だったので最初の揺れの時ほどの恐怖はなかった。少し気持ちが落ち着いたら保育園にいる子ども達と夫が無事かどうか気になり夫に電話してみたけれど、繋がらなかった。ふと急に腹痛を感じたけれど、あまりのストレスに体が反応したようだった。案の定そのうち治ってしまった。

何度も揺れ続けたのでそのまま外で様子を見ていたけれど、震源がどこなのか気になったし、寒くなってきたのでダウンジャケットを取りに階段を上がって居室に戻った。部屋に入って自分の机を見たら息を呑んでしまった。PCのディスプレイは2つとも椅子に向かってバッタリと倒れ、戸棚の上の本は本棚ごと床に転落。重い辞典から軽いファイルまでバサバサと散乱。10階にある居室はどうやら相当揺れたらしい。今後のために地震直後の居室の様子を写真に収めておいた。しかし、1階にあったから揺れの比較的少なかった実験室で1人で地震に遭遇するのと、10階で大揺れだけど周りに同僚がいたのとどっちが良かっただろう。ふと右手に測定用サンプルをずっと持ちっばなしだったことにようやく気づいて笑ってしまった。

とりあえずディスプレイを起こしてみるとパソコンや電気は無事だったようで、つけっぱなしだったパソコンはすぐ使えた。とりあえず夫に携帯からメールしてみたら、一応送られたようだったけれどしばらく返信はなかった。ネットワークも無事だったのでパソコンで情報収集できたのはありがたかった。震源はどうやら最近地震のあった仙台沖らしいことがわかったけれど、その後も何度か激しく揺れたし、小さい地震は無数にあったので落ち着かなかった。

少し地震が減ってきた頃、避難階段で再度下に降りた。実験室にサンプルを戻して装置を片付けた後は寒い中しばらく外にいたら、携帯が鳴った。実家の母からだった。とりあえず母は無事とわかり一安心だった。その後は色々な情報を集めていたら、震源が仙台沖だったり茨城沖だったり新潟だったりとあちこち散らばっているのが、経験上無かったので東日本全滅かとゾッとしたのを覚えている。地震から1時間以上経ってからようやく夫からメールが来た。既に保育園にお迎えに行って家に戻ったというので安心した。JRは全線ストップでお迎えに行けないと思っていたので有り難かった。

だんだん大きな揺れは少なくなったし、寒くなったし、下にいても集合するような気配もないので、再度階段を上がって居室に戻った。締め切りを抱えている人もいたので仕事をそのまま続ける人もいたけれど、車通勤の人が多いので居室にいる人は次々と減っていった。JRは運休していたので私は会社に泊まる覚悟をして、ネットでずっと地震情報を見ていた。電気と飲料水とトイレがあるのは良かったけれど、たまに結構揺れるのでトイレに行くタイミングは難しかった。

その後夫とは電話ができるようになり、お互いの状態を確認できたけれど、携帯の電池がなくなりそうだったのは痛かった。代わりに会社のPHSと充電器が役に立った。ネットのニュースでは津波の映像を繰り返し流していたけれど、この世のものとは思えないほど恐ろしかったのを覚えている。そうこうしているうちに、職場関連の宿泊施設に泊まれるよう、面倒見の良い先輩が手配してくれた。確かにベッドもあるのでそちらの方が良いということで、親切な車通勤の後輩にコンビニ経由で近くまで送ってもらった。幹線道路は大渋滞だったけれど、生活道路はガラガラだったのが印象的だった。

宿泊施設は快適だったけれど、暖房を最強にしても寒かったのでダウンジャケットを着て毛布にくるまっていた。ネットは無かったので、夜中じゅうずっとテレビのニュースをつけっぱなしにしていた。しょっちゅう緊急地震情報がテレビや携帯から鳴り、そのたびに身構えるということを繰り返して、ぐっすり眠れなかった。翌朝は7時頃には電車が動くとテレビで言っていたので、7時半頃に最寄駅に歩いて行った。道中会った見知らぬ人に道を聞かれたけれど、その人は夜通し歩いてきたと言っていた。私は寒かったけどベッドで寝れただけマシだったなあと思った。

駅は電車を待つ人でごった返していた。予定の時間は大幅に過ぎているのに電車が来る気配はない。暇だったので念のため電源を切っておいた携帯をつけたら、なんとこの非常時というのに、あらかじめ予定していた保育園の卒園行事を時間通りやります、とのメールが入っていた。未曾有の大震災で多くの人が亡くなったり、行方不明になったり、原発が大変な状態なのになんと非常識な…と唖然としたけれど、特に欠席する理由も無いし、クラスで一人だけ欠席だったら後でかわいそうなので、仕方ない。慌てて夫に連絡して子ども達を保育園に連れて行ってもらった。

私の方はしばらくは改札付近にいたけれど、もうすぐ電車が来るという放送があったのでホームに降りた。だけど一向に電車は来ない。被災地の方ほどではないにしろ、寒さが本当に身にこたえた。駅に来てから2時間以上経ってようやく来た電車は既に満員でドアが開くと人があふれるほどだった。でも保育園の行事に行かねば、と思い人の間に割って入った。中では身動きが取れず、メール一つ書くのもやっとだった。地震後最初の電車だったらしく、安全確認と言っては止まったり徐行したりを繰り返し、ようやく10時半過ぎに目的駅に到着し、保育園には11時頃到着した。

非常事態をなんとか脱して保育園にたどり着いてみると、普通に行事が行われていて保護者も大勢来ていたので逆にびっくりした。会社から直行でミネラルウォーターや非常食をコンビニ袋に入れて持っているのは私だけ?状態。非常識なのは私の方だったのか?特に卒園児の親御さんは皆さんスーツなど着ていらっしゃったので、自分の子どもが卒園のタイミングじゃなくて良かったと思った。で、肝心のお嬢の出番には間に合わずじまい。まああれ以上早く来るのは不可能だったので仕方ない。

この卒園行事は単なるセレモニーだけではなく、運動会に次ぐ子ども達の劇の練習の成果発表の機会でもあったので、保育園の先生も苦渋の判断だっただろうし、翌週以降は原発事故が深刻化して停電やら商品不足やら放射能騒ぎやらで保育園も大混乱したので、行事どころではなかっただろうから、結果的にはあのタイミングで行事決行で良かったのだろう。だけど遠く離れた外国での大震災ならいざ知らず、仮にも東日本大震災と命名されたあの日の翌日の混乱時に東日本内でお祝い行事というのはどうよ、というのが私の率直な感想ではある。実際翌日は、余震の恐れも大いにあったし、原発だって大変な状態だった。子ども達の安全を第一に考えたら、保育園は行事を延期すべきだったと今でも思う。

あの日の後もしばらくは、電車が運休して会社に行けなかったり、スーパーの棚から食品や水が無くなったり、ガソリンスタンドが開店休業になりガソリンが入れられなくなったり、保育園からは登園自粛や弁当持参のお願いが来たり、水道水に放射性物質が混入したりと、3月中は落ち着かない非日常的な毎日が続いた。どこに行っても節電のため照明は暗く、エスカレーターは止まっていて、暖房も弱く寒かった。携帯電話や構内放送ではしょっちゅう緊急地震情報が鳴り、そのたびに心臓がドキドキした。

私は実は地震後しばらくは地震時にいた実験室に近づけなかった。すっかりトラウマになってしまったのだ。時間が経つにつれて少しずつ実験室にいられるようになったけれど、やはりいまだに誰かほかの人が実験室にいないと不安である。特に今年も冬になってあの日のように寒い日に実験室のある建物の入り口を通ると、かつてない揺れに一人で遭遇した当時の恐怖が蘇ってくると同時に、また揺れるのではないかと身構えてしまう。何の被害もなかった私ですらトラウマなんだから、命からがら助かった方や身の回りに犠牲になった方がいるような場合はさぞかし心に痛手を負っていらっしゃるだろうと思う。

いまだに行方不明の方が何百人もいらっしゃり、震災瓦礫の処理も5%程度しかできていないし、原発も内部把握ができていないと聞く。色々な意味であまりにも大きな災害だったので、1年経つというのにまだ全体像が見えてこない。些細な寄附や仕事を通じて少しでも震災復興に役に立てたらと思う一方で、近いうちにくると言われている首都圏直下型や房総沖地震に備えてあらためて気を引き締めなければと思う。
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